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takagoto0

女性達の物語9 (解説)

更新日:2021年1月9日


「僕の家の居間の壁に、2枚のとても古い写真が掛けられていた。」


僕の家の壁にかけられていた2枚の写真。

3人で写ってる写真は、”りは”とその夫”進(すすむ)”そして真ん中にすわっているのは、姑の”やな”である。


そして一人で写っているのは、”りは”の生みの親の”きわ”。

”進(すすむ)”と”やな”がなくなった後、僕の母の後からこの家にやってきたので、昭和17年以降”きわ”が亡くなる昭和21年までの4年間のどこかで撮られたものと思われる。

これらの写真から、この家が”りは”のものになっているということがわかる。



この物語は、主に僕が母から聞いた情報を”事実”と想定し

それに基づいて書かれています。従って、母の記憶間違いあるいは、

私の聞き間違いにより事実と異なる可能性があります。別の情報源から

事実とことなることが明らかになった場合は、修正しています。


また一部情報のないところは、もっとも確からしいと考えられる

私の想像でつないでいます。


”りは”の三味線が皆を驚かせたのは事実です。

東京で天皇陛下の行列にあったのも事実です。顔を上げて直接天皇の顔をみていたのも事実です。当然警察が飛んできて注意され、”りは”のあの性格から素直に従わなかっただろうと想像できます。

天皇の前で「日本は負ける」と言ったかどうかは定かではありませんが、つねづね人目をはばからず

「こんな小さい日本がアメリカに勝てるわけがない。警察に引っ張られていったら、わしが警察に言い聞かせてやる」と言っていて、言うことは必ず実行する”りは”の性格から考えると、このような展開はあってもおかしくないと思いました。


”進(すすむ)”の妹の”しん”について、”まさき”の奥様おきよ様

の手伝いで請われて、”とし”と二人で寒い朝鮮に行ったのも事実です。

すぐに”とし”が日本に帰ってきたこと、”しん”は寒さに耐えて頑張ったこと、そして多分それがもとで病気になったことも事実です。


”りは”が一目で”しん”を気に入ったこと、弟の基(もとい)を”しん”

と結婚させたのも事実です。基(もとい)はしかし”よし”に引かれていたと

僕の母は誰かから聞いていました。真相はわかりませんが、ここでは

そのまま事実として書きました。


基(もとい)一家が、松江、京都と移り、松江で長男行雄が、京都で

僕の母が生まれたのも事実です。


”しん”が京都でなくなったこと、亡くなる前に姑の”きわ”に泣きながら

子供たちのことを頼んだのも事実です。


”しん”がなくなる前に、娘である僕の母(当時4歳)に会いに行った

場面は、事実かどうか調べるすべはありませんが、この時僕の母が、

「おかあはん、死にはりよる」と突然言ったという事実からは

もっともありえたシーンだと想像しました。


僕の母が、生みの親”しん”の顔を覚えていないこと、”しん”がなくなっても悲しまずにすんだこと、お祖母ちゃんっこだったこと、兄の行雄と良くケンカしたこと、喧嘩すると祖母の”きわ”のところに逃げていったこと、”きわ”が決まって、「二人しかいない兄妹(きょうだい)が、地獄の果てのように喧嘩するんか」と言ったことは事実です。


新しいお母さん、園子がお金持ちのお嬢さんなのに、なぜ基と結婚したか

について、不思議に思ったのは”きわ”だけではありませんでした。

本当の理由はいまとなってはわからないのですが、結婚するはずだった

人がいたことは(僕の母の記憶が正しければ)事実で、この人が急に亡くなったか、いなくなったかで園子が大きなショックを受けただろうこと、は容易に想像できます。


このおっとりとしたお嬢様が、”りは”をイライラさせた、また逆に

”りは”に会って「こんな小姑がいるんだったら、基さんと結婚するんじゃなかった。」と園子が嘆いたのは

事実です。


僕の母が、”りは”の養女として、この家に来た時、”りは”が母を見て

愕然として嘆いたのは事実です。

僕の母が、甘やかされて育ったお祖母ちゃんっ子で、躾も何もされていなかったのも、それを”りは”が嘆いて、「とんだ娘を養女にした。

こんな娘に婿さんの来てがあるだろうか?」といったのも事実です。


僕の母が、祖母の”きわ”が来るまで泣き続けていたこと、”きわ”

がきて、”りは”を叱りつけたのも事実です。


僕の母が、父の基に、「何故産んだの?要らない子の私を」と泣きながら

言ったのも事実です。


僕の母の女学校時代の思い出は、全て事実です。いじめも含めて。


僕の母の結婚相手に、”りは”の気に入った若者を押し付けられたのは

事実です。

「だったら自分が結婚すればいいのに」と思ったこと、「結婚式の朝、神戸に

逃げようと思ったのも事実です。


二つの神風も事実です。


たまたま結婚式の帰りに僕の父の父 清春と、仲人の仁作が一緒になって

婿の話がでて、清春が長男の宗昭を婿に頼んだのも事実です。


2回しかあったことないが、好きの部類にあった宗昭の返事を

息を殺して僕の母が心待ちにしていたのも、そして僕の父が

断ってきたことも、それを聞いて、僕の母が「一生うらんでやると思ったのも

事実です。


神が見放したあと、”長澤のじろうちゃん”と ”ひろしおじさん”が、二人を応援してくれたこと、「ぼくが行けるんだったら、代わりに僕が婿にいきたい。」とか、「あの娘が宗ちゃんを好いちょるんよ。」とまで言ったのも事実です。


占いの話は架空の話ですが、後に僕の父の弟(僕の叔父さん)が、僕の父の姓名占いをしてもらった時に、「姓が河野のままだったら成功しなかっただろう。姓が後藤にかわったから

成功した。」と言う姓名判断があったので、この考え方をもとにして、同じ占い師がもし

そのころの僕の父を占ったらこういうだろうと想像しました。


占いは、その他に、「あなたが捨てないと、あなたが捨てられる」と言う予言で、この時の清春のすでに予感していた懸念を、占い師の言葉を借りて表現しています。


この物語では書かれていませんでしたが、清春の懸念は、宗昭を家に置いておくと、いずれ嫁や子供と一緒に遠くの町に出て行って、コンタクトがなくなる、つまり清春にとっては捨てられたも同然となる。

それだったらいっそ、近くに婿にやっておけば、何かあった時に相談相手になってくれるだろう、と言う考えでした。


この清春の読みは正しく、その後、何度か困ったことがあった時には、

宗昭が相談にのってあげたようです。

しかし、清春は”りは”の存在を過小評価していました。

"りは”は強力なゴールキーパーでした。このため、宗昭が清春を

助けるためにできたことには限界があったようです。


小山の美人5人姉妹


田舎の家は、ちょうど坂を登り切ったところにあり、昔は小さな山の上にあったからか、「小山」と呼ばれていました。屋号みたいなものでしょうか?ほかにも「まどころ(政所:お役所の家だったのでしょうか?)」、「おにもり(鬼森:昔は鬼が出そうな森だったのでしょう)」、「いのこもと(井のこ もと:地域共同で使う湧き水の源、奥豊後方言)」などがあり、小山のタカちゃん、鬼森のヒロちゃん、まどころのカズちゃん、などとよんでいました


清春が、「わしらの若いころ、あの“りは”さんの家(小山)には、年頃のきれいな娘がたくさんいてね。わしもあこがれてたけど、ただ遠くから見るだけしかできんじゃった。」と言ったのは事実です。

実際、その当時この家には、長女の”しな”をはじめ5人の年頃の娘がいました。

”りは”が29才でこの家に嫁に来た時、この家の長女 ”しな”は 32才、二女”すえ”は 25才*(推定) 三女”よし”は 19才、四女”しん”は 17才、末っ子の五女”とし”は 13才でした。

確かに、この年頃の娘たちが 5人勢ぞろいした光景を想像すると壮観だったろうと思われます。

清春でなくても、若い男なら気になったことでしょう。


このうち、僕が会ったことのある人は、”しな”、”よし”、”とし”の3人です。

”しな”は、31才の時豊岡の森為三郎と結婚、4年後離婚、36才の時、宮城県仙台市の大泉製之助という陸軍将校の後妻さんとして嫁いで行った。

この時、末っ子の”とし”も同じ東北の三戸村の川村善八さんに嫁入りした。

この二人には、僕が大学の学生だったころ、夏休みで東北に旅行した時に仙台で会った。


”しな”には、明治の女性としての風格があった。長女であったからか、あるいは陸軍将校の妻だったからさらにそうなったのか。僕が会った時は78才くらいの時だったが、凜とした品格を感じた。若いころはきれいだっただろうなと思った。若いころの話を僕にしてくれた。

ある日タクシーに乗って家に帰るとき、車があらぬ方向に向かい始めた。若い運転手が変な気持ちをおこしたのか。その時、私は言ってやったのよ、と”しな”。

「お兄さん、私を女だと思って見くびっちゃあいけないよ。」と。そして、岩下志麻も顔負けの迫力で啖呵を切った。

若い運転手は、”しな”の剣幕にびびって、すぐに車を元の方角にもどした。


”とし”は、”しん”と一緒に朝鮮に行った時のように、ここでも、いつも姉さんたちにくっついて行く末っ子であった。

名前の通り、人の好さそうな旦那さん、川村善八さんと仲良さそうであった。

”しな”も”とし”も自分が産んだ子はいなかった。”しな”は大泉の先妻の子供を育てた。


二女”すえ”とは、私は会ってない(会ってるけど覚えてないのかも)。

この”すえ”の娘さんが“しげ子”と言って、美人だったらしい。当時、”しげ子”が銀座を歩くと、出会った人が皆後ろを振り返ったと言う。

当然、お母さんの”すえ”も美人だったであろう。


三女の”よし”は、竹田の老舗但馬屋の板井幸助の五男 板井儀四郎と結婚。僕は良く、「竹田のおよしおばさん」と呼んでいた。「およしおばさん」も明治女の品格があった。ちょっとみかけはきつい感じはあったが、雰囲気的には、美空ひばりをもう少し上品にした感じ。きっぷのいい、あの当時の田舎の僕からみたら、かっこいい町のおばさんであった。

若いころ、(僕のおじいちゃんの)基(もとい)が気を引かれたかもしれないのもうなづける。


(僕のおばあさんの)四女の”しん”については、僕の母から知識的にはいろいろ聞かされているが、会うことはなかった。僕の母がまだ4歳の時亡くなったのだから、当然会えるはずはない。

”しん”が若くて亡くなったあと、残りの4人の娘が集まると、自分たちのうち誰が器量よしだったかの話題になって、いつも欠席裁判ではないけれど、”しん”が一番”残念”な順位だったことで皆の意見が一致する。


話題はすぐ別の話に移る。僕の母のことになって、今度は、僕の母が”しん”に似ていることで、全員の意見が一致する。


そばで聞いている僕の母は嬉しくない。

それって、わたしが、一番”残念な”器量だって言うこと?



(続く)







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