- takagoto0
昔探し
2021年9月20日
白木原殿
早速電話有難う。声が聴けて昔を懐かしく思い出しています。
さて、今回の本の中で実名使用の承認をいただくためにご本人たちにコンタクトをとらなければならなかったのですが、昔の人に連絡とるのがこれほど難しいとは思っていませんでした
まず大分舞鶴高校時代、大分の下宿先だった南下郡の関先生のところには、たまたまネットにお兄さんの名前と電話番号がでていたので、104で確認したあと電話したが、何度かけても出てくれない。今日日不審な電話は振り込め詐欺と思われているらしい。たまたま、その電話にはFax機能があったので、趣旨を書いてFaxで送ったら、次の電話ででてくれた。お兄さんのお嫁さんが出てくれて、当然関先生や奥様は亡くなっているのは覚悟していたが、紀昭兄さんはお元気ですかと聞いたら、3年前に突然なくなりましたと言われてショックでした。
白木原君の場合は、ネットで調べて仕事先の研究センターに電話したら、先生は退官されましたって。考えてみれば当然のこと。しかたがないので、ライバル校であるが、恥を承知で大分上野丘高校の同窓会にメールして、冷たく断られるかと思ったら、なんとも優しい対応で探してくれた。前同窓会長で白木原君の友人だった上尾さんが探してくれて、見つかって私がお礼を言ったら、ライバル校であるにも関わらず自分のことのように喜んでくれた。
「連絡をとりたいとずっと思っていた人」との再会(再交信)・・・良かったですね。私も何か嬉しくなりました。
って。
それに比べて母校舞鶴高校の同窓会の対応のつれないこと。昔の恩師の何人かの消息を聞こうとしたが、あまり真剣に聞いてくれなくて、もう亡くなったんじゃあないでしょうかとの答え。
田原八郎君の場合は、高校の同窓会にメールしたが返事なし。しかたがないので、高校のその期の卒業生名簿を名簿屋から買って見たら、田原君は感心なことに、住所と電話番号が載ってる。どこまで正しいかわからないが電話してみる。当然出ない。今度はFaxにも切り替わらない。しょうがないから、住所を信じて手紙を書く。ほとんどあきらめかかっていたころ、八郎君からOKの返事がきた。
安藤君の場合は、同窓会の名簿を取り寄せたが、連絡先不明になっている。彼の場合、有名人になりすぎているので当然であるが。Internetでは彼が現在社外役員をやっている複数の会社の名前と役職くらいしか出ていない。仕方がないので、その複数の会社のうち、育ちの良さそうな会社を探す。で、XX鉄道の秘書課あてに「社外役員 安藤 様」でメールを送る。送り主 後藤 隆広 だけだと、彼のところに行く前に秘書課のゴミ箱行きになりかねないので、「東大 駒場寮施設部」って併記しておく。
こうしておけば、秘書課長もゴミ箱に捨てる前に本人に一応確認するだろう。そこで安藤君が、そんな奴知らないと言ったらおしまいだ。
で、郵便出して何がおこるかじっと待つ。3日たって夕方、見知らぬ番号からの留守電が来てた。携帯のメールに保険会社の秘書課の渡辺さんと言うひとからメールがあった。
安藤君からの言伝だということで、
後藤 隆広様
お電話をいたしましたがご不在でしたので、メールにて失礼いたします。
ご無沙汰しております。お元気ですか。
あれから50年も経ったのですね。
記憶が薄れていましたが、あの頃を懐かしく思い出しました。
ご依頼の件は、やはり別名表記でもすぐに特定でき、色々と差し障りもあるかと
思われますので、記述そのものを削除でお願いいたします。
ご丁寧に事前にご連絡をいただきまして有難うございました。
後藤様のご多幸ご健勝をお祈りしております。
まさか返事をもらえるとは思っていなかったので感激。XX鉄道の秘書さんはちゃんと仕事をやってくれて、手紙をしかるべきところに転送してくれた。
予想はしていたが、別名表記もダメだということなので、急遽原稿から削除し、田原君の別の話で穴埋めする。ちょっと話の流れが冗長になるが、しかたない。どうせもともとの原稿自体が冗長である。
お年の方を探すのはもっと難しい。
父の子供の頃からの友人で、近所の永澤さんところの(母がよぶには)「永澤の二郎ちゃん」。後に大分大学の英語教授として、英国のロマン派詩人ワーズワースの研究で実績を残した人。この永澤先生と父のつきあいを確認するために永澤先生にコンタクトを試みた。永澤先生も有名人であるが、Internetでは住所や電話番号のような個人的な情報は出てない。最後の手段として同窓会の名簿を調べる。旧竹田中学校(現竹田高校)の名簿なんかあるかなと思ったが、名簿屋に確認したら、現竹田高校のところに旧竹田中学校の名簿があった。父も同窓生のはずなので父の卒業年度(途中から海軍兵学校に行ったので、もともと卒業するはずだった年度)の名簿を買う。
昭和20年の卒業生の名簿の中に父の名前があったが、永澤先生の名前はなかった。よく見ると、名簿屋がコピーする時、紙面の都合で昭和19年の卒業生の名簿の一部がコピーされていて、たまたまそこに永澤先生の名前があった。
と言うことは、永澤先生が父の一年先輩だったっていうことか? いずれにしても二人の接点が確認されたので、友達だったとしてもおかしくない。
名簿に記載された永澤先生の電話番号に電話してみるが誰も出ない。住所に手紙してみるが宛先不明で戻ってくる。
今度は別角度から調べようと思い、市会議員のただしちゃんに聞いてみる。
「それなら麻生さんにきいてみたら?」との返事。そういえば、あそこの家は「永澤」って呼んでいたが、麻生さんって呼んでいた人が住んでいたような気もするし。
そこで僕の知っている麻生さんに電話すると、あそこの次男坊がどうのこうのと言って、別の麻生さんの電話番号を教えてくれた。そういえば昔、永澤の家に僕より何年か下の学年の麻生君っていう男の子がいたような気がする。教えてもらったその子に電話して僕の父と永澤次郎先生の親交の有無を聞いてみたが、昔のこと過ぎて彼にはわからない。
「うちのばあさんなら知っているかも知れない」永澤先生のお姉さんか妹さんかの電話番号を教えてくれる。一人で暮らしていて90歳を超えているがまだ頭ははっきりしているとのこと。ただ耳が遠い。電話したら出てくれて、永澤先生のことを聞いたらもう亡くなりましたって。父との親交について聞いたが、うまく伝わらなくて断念。
決定的な情報は得られなかったが、二人が1年違いの同窓生であったこと、母が「永澤の二郎ちゃん」のおかげで父と結婚できたって言っていたこと、それに父の著書の中に、「二人が結ばれるにあたって「N」さんに『あの娘は大変いい』と側面からおススメいただいた」とのくだりもある。と言うことで、永澤先生と父の親交についての確認はこれで終わり。
いづれにしても、この情報化社会の中にありながら昔の友人さがしで一番役にたったのは、インターネットなどの先端技術ではなく、郵便や電話であったこと。
当たり前と言えば当たり前のことであるが。
(完)