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  • Jiro Kira

吉良式夫叔父さんのこと

更新日:2021年3月19日

(二郎レポート その1)

© 2020 Jiro Kira

ここでは、よく勉強した。沢山のことを知った。


 昭和20年4月転籍、神戸市立稗田小学校より大分県緒方小学校2年転校入学、本籍は大分県大野郡緒方村大字馬場139番地、同地そのまま。

叔父さんに子供が居ないので、父親の里でもあり、私が子供に貰われた。神戸第一回の空襲の後、医者に連れて行かれて、大きな胸のレントゲン写真を見せられ、医者から「君の胸にはピンポン玉くらいの穴があって、神戸に居ても、食べ物はない、空気も悪い、命の保証はできないが、もし田舎に疎開するようなことがあったら、田舎には野山に食べ物がある、空気もきれい、命が助かるかも知れない」と言われていた。


 叔父さんの家は、緒方小学校の前に300坪ぐらいの田圃に道に面して建っていた。表はガラス戸で商店風、入ったところに長火鉢があって、障子を隔てて夫婦の寝室が有り、その東隣に座敷と仏壇があった。西側に台所があり、その南に物置を隔てて牛が住んでいて、鶏小屋が隣接し、崖に面していて、南側の高い所は桶作りの作業場になっていた。 叔父さんは、皆から「桶屋の式さん」と呼ばれていた。同じ建物に牛も人間も一緒に住んでいるので、ここは余程貧しいのだなと思った。


 朝起きたら一番に、近くの緒方川の土手に生えている草を刈ってきて、家にある稲わらと混ぜて牛の食事を作って食べさせること、近くに生えているオオバコなどの草を刈ってきて、米糠とまぜて鶏の食事を作って食べさせることが、日課となった。これが済んで自分の朝食を食べて学校へいくようになった。


 隣の三重町に飛行場をつくるという国からの命令で親達が動員された。神戸の空には制空権は無く、敵の空襲で焼け出されてきた私には、わけが解らなかったことを覚えている。田圃の草取りという大事な仕事を子供達に押しつけてのことである。慣れない仕事で、腰は痛いし、疲れてヘトヘトになって畦の間の草を取った。ところが、近所の人と「うちの子は、稗も粟も稲も解らん子で大変ですわ」と話しているのを聞いてあっと驚いた。「教えてくれな、解るかい!」である。


 行雄兄さんも一緒に緒方に居た。小学校長からの要請で代用教員をしていた。知らない子供が「お前の兄さんは怖い」と言うのです。


「あんな優しい兄貴がおるかい!なんでや?」と聞くと「鞭を持っている」というのです。心配で授業している部屋を見に行きました。竹の根っこの指なりの良い鞭を持って黒板を指さし授業していました。


その兄に赤紙がきました。「うちから、兵士を出征させられた」と叔父さんは単純に喜んでいましたが、軍隊生活に耐えていけるのかと心配する人がいたのにです。結核療養中でも法律が改正されて招集出来るようになったとかで、近所のおばさんは「役場の吏員の子供には元気な子が5,6人いるのに、お兄さんに来たか?」と言っていました。


兄は出征する日、列車の最後尾に日の丸を持って立って全校生徒に見送られました。その最前列に私は立たされました。兄は一点を見つめ、必死の抗議の顔をしていました。一生忘れられない顔です。


 兄は、広島の連隊に入隊するが、一週間で除隊そのまま神戸の甲南

病院に入院、その後、結核療養所を転々とし最後は有馬の療養所で死去と聞いている。


 行雄兄さんの思い出

 行雄兄さんは、良く私を映画に連れて行ってくれました。阪神元町駅のすぐそばにビルがあって、その最上階がニュース専門の映画の上映をやっていました。神戸市電の原田駅から乗るのですが、水道筋6丁目から、私を歩道にあげて自分は車道を歩いてあぶないと私をかばってくれるのです。


今と違って滅多に車などこないのにです。市電に乗るとキップを車掌さんに渡すのですが、車掌さんと同じようにキップの束を持っていて、その中から一枚切り取って車掌さんに渡していました。ニュース映画は勇ましいもので、駆逐艦何隻撃沈、巡洋艦何隻撃沈という内容でした。



式夫おとうさんは、 訳の分からんことをよく言った。「お前の父親には偉い目にあってるんや」と言うのです。訳を聞いてもいわない。後でわかった。高校の友達のお兄さんが弟の進学のために財産分けをするというのである。

東京高師を出た父親がどうだったか想像できた。祖父や祖母が多くの田圃や畑を売って学費をひねり出したことであろう。


小さい頃から良く出来た和人(かずと)叔父さんは、上井田村の大津家に婿養子に行って静子叔母さんと結婚して、お金を出して貰い東京に行って勉強して弁護士になったと聞いている。此処には大津和郎お兄さんと大津和保の兄弟二人がいた。和郎兄さんは一橋大学を出て、大分の財務局に勤める秀才であった。弟の和保くんは、妹の洋子と同じ年の子で、遊びも魚取りもうまい田舎の子であった。


城原の千恵子姉さんを訪ねて行くとき、時々緒方から豊肥線沿いに線路を伝って上井田の和保を訪ねて、一日遊んで竹田経由でいった。和保は、静子叔母さんが親子以上にかわいがって育てあげた子だと聞いている。


 座敷の仏壇の上に表彰状があった。吉良式夫さん宛てのもので、何十組か結婚の仲人をやって、「生めよ、増やせよ」に協力してのもののようだ。「奥さんになった人が、竹田の女学校出た優秀なおなごやと聞いたが、嘘だった。どうしてくれる?」と抗議に来た人がいた。「嫌やったらやめたらいい」と言っていたが、子供が生まれてからではもう遅い。いい加減な仲人も、中にはあったのかもしれない。


 奥さんの「ミチヨおかあさん」はすごい人だった。学校の運動会で最後に男女混合の部落対抗の徒競走があるが、うちの馬場部落は一番ビリでタスキを受けても「ミチヨおかあさん」がごぼうぬきでトップで入って勝利していた。走り方を教えてもらうことはなかった。

こんな鈍な奴に教えてもだめだと思われていたのかもしれない。


 仲良しの友達が二人出来た。床屋のターちゃんと二軒隣の、西岡の敏ちゃんだ。鉄棒にぶら下がるが、懸垂が一回もできない自分が情けない状態。泳ぎに行っても、浅いところで小さい子供と一緒に水遊びする始末。でも水の中で目があけられるようになり、山のようになったシジミを見た時は感動した。


 あるとき、友達に魚取りを教えて貰った。竹のヒゴを作ってそれにテグスと針に餌をつけて川に潜って石の重しをして川に一晩つけて流す方法だ。初めての時、大漁と言われた。1メートルのうなぎが二匹、30センチほどのナマズが二匹捕れた。こんなことは滅多にないそうだ。家に持って帰ったら、夜は近所の人を集めて酒盛りをしていた。子供は鼻血を出すと言って私の口には入らなかった。その後何度か捕って帰ることもあったが、私の口には入らない、そのうちやめてしまった。


 数ヶ月経って、母親やきょうだいが神戸から帰って来たので、城原に来いということで、城原小学校に転校になった。母親からは二年になっても九九が覚えられないと言って、鶏小屋に入れられて怒られたが、意味が解らなくて覚える気はさらさらなかった。


 新しい友達が出来て、魚取りをしたが、ドンカチとハエが何匹か捕れて、一人一匹も当たらないと思いながら持って帰ったら、オリハおばさんは、魚を焼いて骨ごと磨り潰しそぼろを作って美味しい押し寿司にしてしまった。「こうしたら皆分け隔てなく食べられる」という言葉に感激した。公正な人だ。ここは緒方と違うと思った。



 小学校4年生のとき、母、妹、弟の3人は神戸に帰っていった。私が5年になって、田植えの忙しい時、父が急死した。埋葬に緒方にかえって来るので、神戸に来なくても良いと言って告別式にはでなかった。


緒方小学校の5年では、友達から雌の子豚を借りて育てた。なぜか、私が級長で、計画作りをした。毎日お昼休みは交代で駅周辺の食べ物屋に豚の食料の残飯をもらいに行った。一週間に一回は豚小屋の掃除をして、汚れ物は近所のお百姓さんにあげて、代わりに藁をもらったりした。毎日のクラスの部屋掃除も順番をつくった。日曜、祭日も、夏休みも、冬休みもない。毎日、よう頑張った。一年経って、豚に子供が十三頭も産まれ、一頭は借りた子供に返して、十二頭売った。


売ったお金で学校の放送設備が出来、鼓笛隊も生まれた。みんな喜んだ。毎日、夕方五時から始まる、NHKのラジオ放送「鐘の鳴る丘」をみんなで楽しんだ。主題歌は今でも覚えている。「緑の丘の赤い屋根、トンガリ帽子の時計台、鐘が鳴りますキンコンカン、鳴る鳴る鐘は、父母の元気で居ろよと言う声よ、口笛吹いて、おいらは元気」そんな歌だった。戦災で親を失った子供と通じるものがあったのかもしれない。


5年生のとき、修学旅行で別府に行った。別府港の近くの旅館に宿をとったが、沢山の浮浪児が宿の前に来た。食べ残しの握り飯やら、おやつをみんなにやった。正月、みんなで餅を持ち寄って擁護学校を訪問した。帰りにNHKの大分放送局を訪問して施設を見学した。それを参考に帰って、放送演劇を学校でやった。


 緒方中学校の一年になったが、式夫おとうさんとミチヨおかあさんが離婚した。なにが原因でそうなったのか、私には解らない。

朝のご飯と味噌汁から作らされるようになった。半煮えになったり、こげめしになったりで大変だった。前のおばさんから「始めチョロチョロ、中パッパ、赤子泣いても蓋とるな」を教えて貰い、少しずつ上手になっていった。「子は、かすがい」と言うが、かすがい、にはなれなかったようだ。


 少しして、あたらしい子連れの女の人が来るようになって、養子縁組解消になった。



 木枯らしの吹く寒い山で炭焼き釜のそばで、炭俵の大きさに合わせて、クヌギや樫を鋸で切った。力仕事は、率先してやった。近くに秘密基地もつくった。イモが保存できる火山灰地の洞窟後である。その時は、きつく、つらいものだったが、身体が強く鍛えられて、田舎の子供に、相撲を取っても負けなくなった。米俵がモミだが担げるようになった。



 オリハおばさんが「お前が神戸に帰っても大変だろうから、此処に居れ」と言われて城原でお世話になることになった。当時、世間では「新聞少年が話題」になっていて、神戸で新聞配りも考えたが、折角の親切を無駄にしてはいけないと黙っていた。中学一年生で、城原中学校へ転校した。


 転校して早々、全校一斉の漢字の読み取り、書き取りの試験があった。全校で二位の成績だった。「千恵子姉さんはすごい人だった」辞書代わりにいつも教えて貰っていた。先生でも10回に1回ぐらいは「明日まで意味を調べてくる」というが、千恵子姉さんはそんなことは一度も無かった。難問即決である。

良く出来た3年生の女の子がトップだった。辞書を引いて苦労したものでないのでそれほどうれしくはなかった。四年生のときに担任が新聞の見出しだけでも読めと進めてくれたことがきっかけで、その先生には感謝している。




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