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後藤千恵子ものがたリ
更新日:2021年3月19日
(二郎レポート 2) © 2020 Jiro Kira
報告 後藤千恵子ものがたり
千恵子姉さんは、大変苦労された人なんです。満5歳の時には、実のお母さん「しんさん」が亡くなっています。小学校6年にあがるとき城原(きばる)小学校に転校し、後藤家に後藤進、後藤りはさんの養女としてもらわれ、神戸から城原に来ましたが、義理のお父さん、進さんは、早死にしていませんでした。
竹田中学校に通学していた1945年3月、神戸空襲で焼け出された吉良一家(4人)が千恵子姉さんを訪ねて疎開をしてきました。
親戚ではありませんが、大阪に住んでいた一家と神戸・御影で助産婦をしていた人の一家、2家族が藏の上下に疎開してきました。
早朝、三ノ宮駅から城原に帰る汽車に乗りましたが、三ノ宮駅のプラットフォームから見える景色は、大阪方面にかけて建物の一つもない、一面がれきになっていました。それでも、2―3軒トタンの下から煙が立っていて、「朝ごはんの支度か」たくましい人がいるなあと見ていた記憶があります。
生まれたところは 「東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花主(あるじ)なしとて春な忘れそ」 と言う和歌で有名な、学問の神様「菅原道真公(すがわらみちざねこう)」ゆかりの京都市の北野天満宮の近くで、前回のきょうだ会の際、このあたりを散策しました。北野天満宮は梅の花で有名ですが、満開の桜の花がきれいな平野神社、安産祈願で有名なわら天神があって、もう少し行くと金閣寺、幼いころよく遊んだそうです。
お産で思い出しましたが、後藤隆広さんが生まれた時は大変でした。お乳が出ないのです。精神的な負担が大きかったのでしょう。夫の後藤宗昭さんもお義母さんの後藤りはさんも困ってしまいました。
重湯に味付けて持って行っても舌で放り出して受け付けないのです。牛乳は飲んでくれました。ハイデの森さんのお母さんが夜中も対応してくれまして助かりました。
ある時山羊の乳が母乳に近いことが食卓で話題になりましたら、翌日には、宗昭さんが雌の子ヤギを連れて帰ってきました。一年で2頭の子を持つ母山羊に成長し、朝絞る乳は隆広さんのものでした。一升瓶に一杯入ってありました。
正宏さんが生まれた時は、出産に合わせて山羊も出産し、お乳に困ることはありませんでした。近頃、乳牛牧場などに行くとベートーベンの田園交響曲などが聞えてきます。良くお乳がでるんだそうです。あの頃知って居たらなあと思います。
私は中学校一年生の時、緒方中学校から城原中学校に転校してきましたが、来る早々全校一斉の国語漢字の読取り、書き取りの試験がありました。
全校で二位か三位で三年生の女の子がトップでした。
これは千恵子姉さんのおかげなんです。先生から新聞の見出しだけでも読めと言われ、読みも意味も全部、千恵子姉さんに聞いていました。
先生でも十回に一回くらいは、返事できなくて、明日まで調べてくると言われるのですが、千恵子姉さんは一度もそういうことはないのです。即時即決です。すごい人だといつも思っていました。このようなことは、後にも先にもありません。
高校に行くようになってからは、図書館や辞書を使うようになりました。良くできる上級生の男の子が何人か「どいつや」と言って部屋をのぞきに来ていました。
食事の世話から洗濯、身の回りのことまですべて千恵子姉さんにオンブニダッコでした。
「君の胸にはピンポン玉くらいの穴があって、神戸には食べ物はない、空気も悪いから命の保証は出来ないが、田舎に疎開したら、野山に食べ物がある、空気もよい、だから助かるかもしれない」とお医者さんに言われていました。
千恵子姉さん、宗昭にいさん、おりはおばさんのおかげでいまだに生きています。
報告の第一章です。
吉良 二郎
資料
後藤千恵子
出生 1930年昭和5年4月13日
出生地 京都市上京一條通御前通西入2丁目上ル西町弐番地に於いて出生
(昭和六拾壱年八月廿九日大分県大野郡緒方町認証謄本)
父 吉良 基 大分県大野郡緒方村大字馬場139番地にて、父吉良與市母キワ弐男
1896年明治29年9月12日生(1948年昭和23年6月18日死亡)
母 吉良 しん 大分県直入郡城原村大字米納611番地戸主後藤進妹、父後藤清二郎
母ヤナ六女1905年明治38年12月10日生
1926年大正15年1月19日吉良基と婚姻
(京都市右京区音戸山山ノ茶屋町7番地二於いて1934年昭和9年10月 25日死亡)国立宇多野病院
北野天満宮
東風吹かば匂い起こせよう梅の花主なしとて春な忘れそ
春の東風が吹いたら、また美しい花を咲かせておくれ、梅の花よ。ご主人様がいなくても春に花咲くのを忘れてくれるなよ。
右大臣菅原道真は学識が豊かだったので天皇に重用されていたが、左大臣の藤原時平はそのことを快く思っていなかった。そのうち、道真にとって良くないことが起きて道真は太宰府へ左遷されてしまった。
道真は大宰府で亡くなったが、(道真の霊は)その夜の内に京都の北野に移り住んだ。これが今の北野天満宮である。
後藤宗昭さんについて
大変な働き者で、やることがサドイ、俊敏です。そして、ユニークです。みなさん先生の授業を受けたことがないと思いますのでその一端をすこし話します。
社会科と英語が担当でした。
社会科の授業が始まると机の並び替えをします。4-5人のグループに分かれて課題を調べて発表するのです。私たちは役場に行って村長に話をしてもらいましたが房前の雑貨店に商業を、農協に行って農業を、郵便局に行ったりで忙しい勉強でした。おかげで勉強と言うのは自分で努力をして学ぶものと言うことがわかりました。
先生は部屋の片隅の自分の机で一生懸命勉強していました。何をしているか、知っているのは私だけでした。玉川大学の通信教育で教諭の資格を取るために勉強しているのです。
1週間に1度は大学に論文を送っていました。家では下の間の机で時間を見つけては論文を書いていました。机の周囲には担当でない数学の教師用の参考書などが散らばっていたので掃除して片付けながら参考にさせてもらっていました。
海軍兵学校と言う難しい学校出ていても先生の資格は無いのです。戦前の政府は国民には敵性語はしゃべってはいけないと英語を禁じていながら海軍兵学校では英語の勉強をさせていたようです。少ない英語の先生でしたから。
ある時英語の授業に、音楽室に集まれと言われ何が始まるのか興味津々でした。
分厚いカーテンを引いて部屋の中を暗くして、レコードプレイヤーにはソノシートが1枚乗っていました。流れてきた音楽は英語版の「サイレント・ナイト」でした。
この歌、今でも歌えるのです。他の英語は忘れました。
お義母さんの後藤りはさんについて
3歳位の頃、二郎は林田区片山町で背中に背負われた記憶があります。その頃、父親に連れられて城原に来たことがあります。
皆黒い喪服を着ていて、みんなの前で歌を歌いました。なぜか「男の純情」と言う歌でした。寝るときになってきれいな絹の布団を出されて「ねしょんべん」をするからと断ったのですが、良いからそのまま寝てくれと言われ仕方なく寝ました。ねしょんべんしました。翌朝、すまないと謝りましたが「うちにはねしょんべんする子がいないんだ」と言われました。こんなこと言われたのは初めてです。いつも辛い思いをしていましたから、こんな言い方があるのかびっくりしました。評価されたのです。そのあと、小便をする時に必ず太ももをつねって、行夢でないことを確かめてするようになって治りました。
ある時、魚を2―3匹釣って、少し大きめの「ドンカチ」がいるが、おかずにはならんと思いましたが、焼いて包丁の裏で叩いてすりつぶしていました。そぼろを作って押し寿司にするんです。「こうしたらみんな分け隔てなく食べられると言うのです。」この人はたいした人だと信頼が増しました。
学校が休みになると、必ず城原の千恵子姉さんを訪ね、何泊かしました。往復歩きましたが肉親に会える喜びで元気いっぱいでした。途中、人にも車にも会わなかった事は今から思えば不思議です。城原につくとおりはおばさんが「ようきた」と言って歓迎してくれ、
お風呂沸かしてくれ、千恵子お姉さんに背中を流してもらうと、それまでの疲れが吹っ飛ぶようでした。以前神戸から緒方に帰ってきた最初の頃、友達が釣りに連れて行ってくれました。「たてばり」と言って、糸と針に餌をつけて、石を重しに川に1番流し翌朝引き上げるのです。初めての日はめったにない大量やったようでその後1度もありませんでした。1メートルを超える鰻が2匹、」大きなナマズが2匹取れました。その夜は近所の人がたくさん来て飲めや歌えの大騒ぎでした。子供は鼻血が出るからといって食べる事は禁じられました。翌朝友達はあんなうまいものが食えなかったとは残念と言いました。
そのあと、1―2匹は取ることはありましたが、私の口に入る事はありませんでした。そして、魚釣りはやめました。少しでも食べさせておけばもっと頑張ったと思うのですが、子供を育てたことがない人は下手だなあと思いました。
緒方での生活は、朝早く起きて草刈りに行きます。牛の1日の餌にします。小さく切って藁と米ぬかや米の伽汁などをまぶして与えます。木の板に包丁を括りつけただけのものでしたから包丁が首を振って、難しい動きをしました。左手の親指と人差し指は何度となくケガをしました。
数十メートル西に、一軒の旅館がありました。数キロ奥に鉱山があってそこを訪ねてくるお客や鉄道の職員などが利用していました。そこのおばさんが訪ねてきて、うちも大阪の親戚から子供もらって寂しくしているので遊んでやってくれと言われました。友達2-3人連れて遊びに行きました。行ってびっくりしました。子供部屋があるのです。椅子のついた勉強机があって、本棚があるのです。本がいっぱい入っていて、羨ましく思いました。小説宮本武蔵や豊臣秀吉、徳川家康、怪人二十面相などが置いてありました。友達が将棋の相手をして、ジロちゃんは将棋ができないから本でも読んでおれということで、私はもっぱら本を読んでいました。3時には、おやつが出ました。
子ヤギのこと
分娩後30分―数時間で、自力で立ち上がり、母親の乳房を探して乳を飲む。生後10日過ぎて、飼料に興味を示し食べ始める。生後1ヵ月、第一胃も発達し、生後3ヶ月親ヤギと同じ餌を食べる
小型の山ヤギ 成熟早い 日本ザーネン種 6から7ヶ月
小型シバ山羊 3-4か月で発情 妊娠期間5か月 (150日) 寿命7歳
生後40日―80日までに離乳し、十分な粗飼料を食べさせ丈夫な胃を作る。
四つの胃を、持つ。第一胃はルーメン、成牛で150―250リットル
草を食べて、乳を生産する。
沢山の細菌、微生物によって分解、生産される。
反芻動物です。 -牛、羊、山羊
単胃動物― 人間や豚
乾乳 翌年の分娩や秘乳に向けて体や乳腺細胞を休息させるため 期間60日
秘乳期間(240から280日)1日2500グラム 総乳量600から800キログラム
体に優しい山羊乳
牛乳に比べて脂肪球が小さいため消化吸収が良く乳糖が少ないため下痢になりにくい長所アトピー性皮膚炎や牛乳アレルギーの人が飲んでも約75%の確率でアレルギー発生しないため近年利用性が見直されている。
におい
周囲のにおいを吸収する性質
搾乳後すぐに畜舎の外に出す
沸騰しない程度に沸かすだけで充分殺菌できる